神道無念流(しんとうむねんりゅう)は、
日本の剣術の流派。「立居合」という居合も含むが、実際に立居合も学んだ者は極めて少なく、
免許皆伝に至った者はないと言われている。神道無念流の免許皆伝者は剣術のみを修めた者である。なお、神道無念流の継承は宗家制(正統を伝えてきた「家」において伝承)ではなく、道統制(道を伝え系統)である。
関東派や長州藩伝、戸賀崎流など多くの伝系による差異はあれど、そのどれもが
免許者により神道無念流を継承していることに違いはないが、しかし、太平洋戦争昭和期にそれぞれの派の継承者が正統な伝承者であることを指して「宗家」を名乗りはじめたり、免許を授けられていないものが詐称したりといったことから、「宗家」という呼称が混乱を招き現在にいたる。

そもそも「宗家」とは、「芸道などで正統を伝えてきた家。またその当主」という程の意味合いです。継ぐ者が例えば他家の者だった場合、養子となって苗字を改めて家も継ぎます。これらは家伝として流儀を伝えていくという事です。

宗家制度は必ずしも一子相伝というわけでもありません。「家」において伝承していくのが宗家制度です。これは家元と称される事もありますが、江戸時代の流儀ではむしろ珍しかったとされております。

尾張柳生家の新陰流は一見すると家伝と思われがちですが、尾張藩主に新陰流の道統を相伝し第四世、第六世、第七世、第九世、第十二世、第十五世、第一八世と尾張藩主が流儀を継いでおります。もっともこれは尾張柳生家(家伝としての新陰流)が尾張藩と両輪として永世に受け継がれるべく生まれた一種のシステムであり、実質上は尾張柳生家による宗家制度とも言えるかもしれません。現在の新陰流を傳える柳生会では、宗家を名乗られております。

 

師範家
学問や技芸の口伝・秘事を代々受け継いで皇室や幕府の師範となった家であり、師家や範家はその略称のようです。相伝者(師家、範家)は基本的に一代に一人です。師家、範家は流派の兵法を相伝したというだけではなく、これを伝承し流儀をまとめる役を担います。心技体のみならず流儀の存続を託される人物が継承するものです。系譜から見ると神道無念流は練兵館関東派は警視庁主席師範を納め、撃剣館直系が師範家となっている。

 

流祖

福井兵右衛門嘉平

元禄十三年下野国(現 栃木県下都賀郡壬生町)に生まれ、はじめ新神陰一円流の師野中権内について修行し、諸国武者修行に励み、信州戸隠の飯綱権現に立ち寄って参篭中、現れた老人より7日間にわたって剣法の妙要を授かり、下山後伝授された妙要から剣の奥義を悟り、立居合十二剣を編み出し神道無念流を開いたと伝えられる。

その後、江戸四谷に道場を開き、門弟の育成と流派の発展に努力したが、神道無念流が広く世間に知られるようになったのは二代の戸賀崎熊太郎暉芳からである。

戸賀崎熊太郎暉芳は、十五歳のときに江戸に出て嘉平に師事し入門六年後、弱冠二十一歳で免許皆伝を得た。のちに岡田十松や斎藤弥九郎などの剣客がこの門から出るに及んで一層隆盛を極めた。なかでも、斎藤弥九郎は、北辰一刀流の千葉周作、鏡心明智流の桃井春蔵と並び幕末三剣豪といわれた。

 

流儀の特徴

当流は精神の鍛錬を最も重視した義に用いる剣であり、その根本的な思想は和であった。昔は「鞘の中に抜かざる刀」を絶えず念頭におき、みだりに事を刀で表すことを禁じられていた。

稽古では「力の剣法」と言われる如く、竹刀稽古では「略打(軽く打つこと)」を許さず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃を一本とした。そのため、他流派よりも防具を牛革などで頑丈にしていた。幕末の江戸三大道場は道場主の名から「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されるほど、神道無念流は他流派と比べて力の剣とされていたことがうかがえる。昭和初期に行われた天覧試合の記録映像でも、優勝した増田真助を始めとする有信館の選手たちが、竹刀を頭上に大きく振り上げて力強い打突を繰り出していることが確認できる。

他流試合については、初め禁止されていたようであるが幕末期には盛んに行われていた。

 

神道無念流を学んだ主な人物には

江川英龍(幕臣)

藤田東湖(水戸藩)

渡辺崋山(田原藩)

 

桂小五郎(長州藩)

渡辺昇(大村藩)

吉成勇太郎(水戸藩)

 

芹沢鴨(水戸脱藩、新選組)

大川平兵衛(川越藩)

太田市之進(長州藩)

 

斎藤一(陸奥斗南藩新選組)

井汲唯一(津山藩)

仏生寺弥助(越中国)

 

伊東甲子太郎(新選組)

永倉新八(松前脱藩、新選組)

 

 

らがいる。特に練兵館においては長州藩士が多く学んでいる。また、光華院流は芹沢鴨の技の流れを組むと言われている。

 

練兵館の歴史

練兵館は斎藤弥九郎が1826年に九段下(現靖国神社内)に開設しました。

力の練兵館千葉周作の技の玄武館桃井春蔵の品位の士学館が幕末の三大道場と言われます。

練兵館の門下生としては、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、渡辺昇、谷干城、伊藤博文、品川弥二郎等がおります。明治の廃刀令により剣道は衰退し、練兵館も閉じました。

それから長い年月を経て、斎藤弥九郎と縁のある信太郎が栃木県小山市に居住しており、その信太郎の依頼により、昭和50年に前館長白石聰が、信太郎を館長として現在地に再興。

平成30年6月に神道無念流練兵館直系一門会・神道無念流撃剣館直系師範家・師範家一門光華院流の協力体制が成立し宮中練兵館が再建された。

 

 

明治19年(1886年)頃に警視庁で制定された警視流の木太刀形と立居合に、神道無念流のが採用されている。中山博道は警視庁の剣道主席師範を務め、警視流木太刀形も積極的に修練していた。木太刀形は現在も警視庁の剣道家に伝承されている。立居合は現在の警視庁では有志で組織された同好会によって伝承されている。

  • 非打 十本    口伝
  • 立居合 十二剣  口伝
  • 統合 二剣    口伝

 

伝書釈義 神道無念流目録 @

伝書の相伝順序からすると『神道無念流初巻』、『神道無念流演武場壁書』の次に授けられる三巻目の伝授巻である。

この伝書の詳細(口伝)は、現在どこの神道無念流にも伝えられていないものと思われる。

伝書の冒頭には次のような記述がある。

未発象とは打仕双方が中段に構え、物打で交わる形(象)を表しており、正に描かれた図のとおりなのである。

 

伝書釈義 神道無念流目録 A 

次には流儀で伝える形の目録が記載されている。流祖福井の時代には、五加五行の次に、「九加九字十字」があり、立居合十二剣の次に「居合五剣」がある。さらその後、三学陽剣が九箇条、電光が八箇条、位太刀巻石火が七ヶ条あり、最後に「惣合 二剣」がある。ここでは非打十二剣の意義。非打とて、主太刀より生ずるの名なり、打方は邪、主太刀は正なり、正を以て推し、十分の気の先をかける故、邪迫て打出すなり、依て主太刀は求めて打に非す、敵に応し後先のわざを以て自ら勝を取るなり、只七本一剣のみ、後先のわざにあらず、敵を動して、先を打也、是試合口にて事を論するもの也、いかにもするどくつかうべきなり 

伝書釈義 人心           

 目録で形数を示した後に「人心」の教義が書かれている。

人 心

人心者如鏡物来則応

物去依旧自在不曽迎

物之来亦不曽送物之

去只是定而応応而定

人心は鏡の如く 物来れば則応ず 物は去旧に依 自在曽て物之来る迎へず

亦曽て物之去るを送らず 只是定て応ず 応じて定る。

 『神道無念流剣術免許弁解』の中にその解釈が出ている。

「(前略)剛とか柔とか一偏に執着すれば臨機応変のわざ出ず。一円の明鏡の体あればこそ、敵の曲直邪正を照し、千変万化のわざあればこそ、一円明鏡の用を見はすなり。事理の離るべきからざる誠に如此。(中略)水晶の玉の如く、始もなく終りもなく、まんまるに曇なきものにて、人来るとて別に光をますにもなく、物去るとて、光りを減ずることもなし。夫物来れば大小精粗不求して、照さざることなし。

 

伝書釈義 兵法の至極       

 

兵法の至極は唯こころひとつに工夫肝要なり。然は術の業は色々にあやありて、ととまる処の妙剣は中の一字にきわまりて、別の事さらになし。敵にむかへ勝負の妙道あり。一心常にこころを主人として、うちにあれは実に其屋不能入外容、一大事有之乎

離於い強弱柔剛而以中一字体配之也

それ故強き弱き柔か剛きなど云ものには、とんとはなれて論することなし。ただかたよらず、まがらぬ処の中の一字を我身にひたと引受あはせるなり。中の字は一尺の物五寸を中とする意にてはなし。天地の備はりたる処を中と云也。一尺のものにて二寸の処に中の有ることもあるべし。又五寸七寸の処にあることも有べし。物をはかりに掛て、ふんどの留る処先つ中の意なり。それをいつも五寸の処を中と思へば、大なるあやまりなり。体は中庸の体群臣とある処の注に猶接納とあり。まじはるの意なり。又礼記文王世子の篇に体異性と云処の注に猶連結とあり。つらなりむすぶの意なり。配は配偶配合などの熟字ありてならぶとよみ、又あはすの意なり。さすればこの体配は中の一字を我身へまじわりつらねて一つに合すると云ふこと也。

つまり、この「中」を自分の心と一つにすれば歪みもなく、偏りもなく、天理は心にある故に真に「一円」になると説く。自分から切ったり、打ったり、捕らえたりせず、何もすることはない。それは明月が澄み渡り、万物を照らしても別にすることはないのと同じであり、これを「未発」と言って、これが剣術の至極の妙要だと説いている。

 

 神道無念流立居合口伝

 

鞘離れ、体の締まり、手の内の冴えに心を用ゆべし。鞘離れは始はすらすらと抜き、鯉口三寸にて鋭く抜き離す也。始より余り急に抜けば、鯉口へ切込むもの也。体の締まりは、打込みたるとき、下腹を張り、腰に力を入れる心持あり。手の内の冴えは打込む時、体につれて力を入れる心也。始終力一杯に握り詰めては、切れぬもの也。手の内を緩めるにはあらざれども、自然のやはらきある内より一段の締まりありて、切味宜しき也。修行して自得すべし。

神道無念流居合

極意に達した人の居合は実に綺麗で、迫力もある。神道無念流は一円流剣術を学んだ福井兵右衛門によって開かれた剣と居合の流儀である。二代目は戸賀崎熊太郎暉芳が継承し、江戸と現埼玉県の清久村で教授した。戸賀崎熊太郎暉芳の門人でもっとも傑出したのは岡田十松吉利である。斎藤弥九郎、藤田東湖、永倉新八、江川太郎左衛門、渡辺崋山、金子健四郎など、皆岡田十松の門人である。