令和とともに勝玄庵を設けた。
この場所は、自然の中で大いに剣を振るい、礼節を学ぶ為の場所で練兵館の出先機関として考えていただきたい。
近くには湖もあり、鳥のさえずりを聞きながら心身を癒し、本当の自分と向き合うには一番いい所となるでしょう。
都会の雑音から離れ、私欲からはなれた上で稽古する。
剣は振る事や斬る事ばかりでは上達しない。
ここへ来て稽古できるように先ずは上達しなさい!

勝玄庵は、日本の真ん中にあり、九州からも東京からも車で来やすいとことにあります。

道場であるから宿泊費等は必要なし、自炊設備、浴室もあり、近くには温泉もあります。

稽古について
居合や捕りは室内稽古。立会いと陶物切りは室外で行います(写真右の湖畔道)

利用可能者は
神道無念流三段以上、光華院抜刀術有段者、大東流合気柔術川辺派二段以上、喫煙者は使用不可とする。

道場は己を磨く所、進んで清掃するのが常識である。
清掃は毎朝し寝具も日干しする。

使用希望者は宗家まで連絡の事。

宗家鍛錬場

稽古は一人でもどこでもできる。光華院流は片手を上へ伸ばして天井に着くような場所でも、立会いで自由に剣が使えなければならない。よくある居合のように座っていたり、広い場所でなければ稽古が出来ないというのでは本当の剣とは言えない。

人は百八つの煩悩と欲を持つ異鬼者〈イキモノ)である。
心が豊かであれば争いはない。武道とは争いを止める道と書く。剣を通して心を磨く事が第一の稽古。心が伴わぬ技は弱く美しくない。
争いは、同じレベルの者どうししか発生しないという。至極もっともである。常に志を高く持てば、下位の者に対して頭を下げ事を収めることは簡単なことである。だが、そういう人に限って、その逃げるという策が至上手段になってしまいあらゆる場面でも通用すると思いがちである。それは疑問である。敵に絡まれた時点で重要なことは、己の身の安全であり、同行者の安全である。人によってはさらに、己の信念であったりするだろうが、それらを守るために、最善の行動をとることが必要とされる。その最善が逃げる行為であるのか、その場で戦うことなのか、はたまた交渉することなのかは、千差万別。「戦」も「逃」も「渉」も手段にすぎず、どれも同格である。なにも、「戦」のみが貶められる必要性は全くない。大切なのは、何が大事であるかということである。
では、「武」とは何か。戦うことであろうか。私はそうではないと思う。
「武」とは、心であると思う。その原義どうり、武器を持ち相手に向かって行く心。たとえ、その場で退いていても心が目標に向かっていればそれは武である。それは何も、敵に絡まれた場面だけではない。人生におけるあらゆる場面においてである。目先にある苦労から目をそむけているのでは「武」ではない。己の力不足を棚に上げ、時代のせいにするようでも「武」ではない。
「武」とは、自分に出来る精一杯の力をふりしぼり、向かって行く心なのである。
それであるからこそ、「武」とは一生を懸ける価値があり、また後世に伝えていかねばならないものなのである。

光華院流剣術の技法

光華院流とは本来、戦の為の剣技であり、基礎となる技の中には神道無念流剣術・居合術・抜刀術があり、それらは沖縄空手道・合気術などの要素も含む。従って、自分の入りやすい所から稽古を始めるとよい。決められた日に道場で集まり稽古するのもよし、一人で山河で稽古するのもよし、努力は必ず認められます。このネット時代ですから日本中いや世界中どこでも始められます。

技法
基本の形には、剣術には、捕り・立合・居合(座って戦う)がそれぞれに十本づつあります。
       居合術には、立居合十本・居合五本があります。
       抜刀術は、真剣を持っている人で主に畳の巻いたものを敵に見て練習します。
       
これらの基本形を、如何に自分なりに活かせた技に使えるようになるかを稽古するもので、皆揃ってお遊戯みたいな形比べ試合・演舞はしない。
刃物で物を切りたければ、板前になれ! 演武を見せたければ神楽でも習うがいい。光華院流にこれらの者はいらん。
  
秘剣とは、守破離の中にあるように破や離の境地を極める師範代クラスが、同門にも負けない技を見つけ出したものであり、従って無断撮影や使用を禁止しているのがご理解いただけよう。

光華院流剣術

平時において、武士道を学ぶ意味はないかも知れない。しかし、日本の美しい伝統を誰かが正しく伝承していかなければならない。そこに大きな意味がある。

現代の武道家は金銭や見かけだけにこだわり、礼儀作法さえ心得ない指導者も多く、簡単に段位を与えることで利益を得る商業武道家が増加している。商業武道の多くは昇段試験の受験資格に一定の稽古期間を設け、その間月謝を取るというものが多い。人それぞれにセンスや努力の仕方も違う、一定の期間稽古でそこそこの段位を与えるなどで、金儲けするのは大道芸人の育成といえよう。人の一生は「金を残すのは下の生き方、名を残して中、人を残して上の生き方」というが、これらの者は下道を行くものであり真の武道家とは私は言えない。そもそも武士道とは死を覚悟する事なり、士道は死後に恥ずかしくない生き方をする事なり、と言うように武道家たるものは、身を正し正義を重んじ、礼儀に始まり礼儀に終わることが大切である。
武道の技を極めても現代社会に利用価値はないが、礼儀は大きな力となってあなたを助けてくれる。礼儀のないものに大いなる豊かさは訪れない。光華院流は真剣を使用した真の剣術を通じて、現代社会に欠けてきた必要最低限の礼法を学ぶものである。

参考資料
光華院勝玄
入門案内
段位認定条件
礼儀作法
光華院流基本形
系譜
武道用語
必要知識
神道無念流
下げ緒の巻き方
柄糸の巻き方
太刀の佩き方
袴の佩き方
この動画再生には数分か
かることもあります。
宗家の抜刀の歴史を簡単にまとめ
たものです。画像が古いので見に
くいとは思います。
次の動画は、2018年5月に宗家の
穂高稽古の模様です。他の演武者
は除いております。
秘剣逆刃返

この技は、剣術の中の抜刀術であ
り最初に斬った半畳巻きが下に落
ちるまでに、剣を返して二刀目を
斬り、二刀目が落ちないうちに剣
を返して三刀目を斬る。という技
である。

始めは少々ゆっくり行います。

道場の高さもご確認ください。

稽古風景動画
光華院宗家の稽古風景の一部を
ご紹介いたします。
二段まではこれ位の穏やかな稽
古でいいと思います.

捕り
立合
居合
刀捕り
神道無念流免許皆伝状
居合道最高段位証
光華院抜刀術承認書

人はこの地を、この星を、自分たちの物のように生きているが、この星で生きているのを許されているに過ぎない。写真を見ても分かるように人は早々に朽ちていくが、自然はこの40年何一つ変わっていない。変わったとしたなら人が欲の為に変えたのであろう。

人は生きてる限り、欲におぼれその欲を満たそうとする。自分が生きる為に他の生き物を食い腹を満たし命をエネルギーとする。また、その命を奪う為に生き物を飼う。スーパーで食料を買うが、それらを殺す者が自分の代わりにいるだけにすぎない。殺されるほうの立場から見たらどうだろうか?いつ来るかわらない死に怯える日々だろう。乳牛も考えてみると母牛が子育てのために出す乳を奪い、出なくなったら殺して食らう。酷い事には子羊や小牛の料理は柔らかくてうまいなどといって成長しないうちに食らう。自分たちの子供が目の前で食われるために殺されたらどう思うだろうか、これが鬼の行いでなければ何であろ。人間は神によって作られた鬼であり、鬼がこの星を占領している。動物や魚においても弱肉強食の星。地国(獄)の集まる地獄星といえよう。

日々人間は自分たちの都合のいいように多くの命を奪いつづける。人間どうしも傷つけあいながら生きている。自分たちの集団でルール(法)を決め、傷つけたり殺したりすれば厳罰を与えるが、自分たちの集団でなければ多くの人を殺しても(戦)問われるどころか英雄となることもある。

これらから考えると鬼(人間)の死は、地獄から抜け出せる喜びである。

私達人間はキリスト教では天使が悪魔に恋をし誕生したとも聞くが、神国日本は神の国(天国)から神によって定めだれた寿命と言う刑期を、この地の国(地獄)で過ごさなければならない。ここは多種多様の鬼(人間)によって存在する地獄である。いい人ほど早く死ぬと言うのも刑期の短い人は早く戻ることができるからである。長生きするほど苦しめられる時間が多い。これに気づかない者は死を恐れる。何故なら神によって、死を恐れることでこの地獄から逃げ出す事のないようにされているからである。熟睡して目覚めた時、目覚めるまで何も感じていない。すなわち死の状態にあるといえよう。中にはこの世の地獄から、自ら神の意に反して脱走を図る者(自殺)もいる。しかし、それらは神の元にも戻ることも出来ず、間違いに気づいた時にはこの世に戻れる亡骸もなく、神の定めた刑期満了までもっと辛い暗黒の世を生きなければならない。

人は神が決めた刑期満了(寿命)までは死にたくても死ねないのである。従って、それまでは如何なる戦であろうと生き残る。もし死を得られたならば、それはこの地獄からの出所として喜ばなければならない。死は恐れず喜びである、人は誰もがこの地獄へ来たくないと泣きながら生まれてくるのです。

地の国(地獄)の過ごし方。
神はその人が前世で何らかの罪を犯したり、やり残した者を再び償わせるために、この地の国(地獄)におくられる。多くの人を苦しめたものは苦しめられる側に、多くの命を奪ったものは犬畜生になって死の恐怖を味わう、何度も何度も繰り返す悪党は虫けらとして生まれる。従って、この地に二度と戻りたくなければ、今を出来るだけ美しく生きる事である。また、それが早く神の元へ戻れる道でもある。

死は喜ぶ事だが、ただその心や準備が出来ていない者が悔いを残す。武士は死がいつ訪れてもいいように備える事を心掛けた。それが武士道であり士道だという事である。

死は長らく共に暮らした者との別れを悲しむもので、この世の煩悩からとかれ神の元へ戻れる喜びである。しかし、自ら逃げる為に望んでは更に過酷なところに押し込まれる。従って、自らではなく訪れる死とは、寿命の他には戦などの逃げられない事や人の為のものであり、事故は神がその刑期を短縮し善悪を問いただしたいときに起きる。

死を恐れず天命に任せて日々を美しく生きる。これが士道であり光華院流を学ぶ者の基本である。

解ったものは、直ちに自分が神の元へ帰る時に残される者の為の準備をしておくことである。これが悔いの残らない覚悟の出来ている人という。

僧侶の必要性

日本は神国であり、仏教は聖徳太子が持ち込んだとされており、残忍な戦で多くの民を殺害した武将の心のよりどころとして多くの寺が建てられた。源平の世でも戦国の世でも日本の僧侶は武器を持って人を殺めている。仏に使える身でありながら仏を作っていたわけである。また、仏教の地(ガンダーラ)のインドは控えめに言っても美しい国とは言えないし、日本より発展も遅れているではないか、そのような国のものを学ばずとも自国の神教を学ぶべきだと思う。外国から入り込んだ仏教の寺院に税をとれば日本の国は潤うことは間違いないであろう。それだけ勇気のある政治家や民がいないのであるから仕方のないことである。日本人はとかく何事も他国の真似をするのが好きな人種である。

しかしながら人はこのように考えられない者のほうが多く、事故や病気でこの世に未練がある者や神の元を目指せない者もいるだろう。僧侶はその道案内をする者と考えるのがいいように思う。
この考えの元、人生水の如し生きる
大海より上りし水は(神の元へ戻る魂)、天より一滴の雨水となり世に下りるこれ人の生なり(神の審判により再び地国へ)、水たまりとなる(選ぶことのできない家族を作る)紆余曲折の道を得ながら清流小川へ流れ(幼少期)、やがて小川の集まる大きな川へと出る(社会)。大河となった一滴の水は再び大海に戻る。此れ人の死なり。(刑期満了後神の元へ)
水はその流れ方(生き方)によって清水も直ちに濁り水(悪しき行い)となる。海遠きにして濁りしみずは、その流れを改めればろ過され清し水に戻りしも、海近くして濁ればそのままで終わる。
濁ったまま海に戻るは、悔いの残る人生なり。(神のきつい審判が下る。)
また水は決して上る事なし、上ると思うは愚かなり、少し広き川(社会)や大河(国や会社のかじ取り)に出たに過ぎない。(神が与えた苦行であり羨むことなし)
この考えの元、光華院流は、神道無念流師家一門として、恐れのない、濁りのない、美しい剣術として争う為のものでも自慢する為の剣でもなく、心穏やかに正義を生きる為の剣術とし、勝負において剣士としての命は奪っても、人の命を奪う剣ではなく、素早く抜き、素早く斬り、素早く納める、静かなる剣術で太刀の長さが見破りにくい事を極意とする。

勝玄の考え方 (人生如水)

人の生は悪なり

下の写真は勝玄が同じ場所で年代ごとに撮影したもので、人は自然の中でほんの少しの時を生かされているに過ぎないのに、多くのものを傷つけて生きる異鬼者(イキモノ)である。


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60代
40代

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